のっかーのエンジニア日記

新人SEの日記です。

【読書録】旅は旨くて、時々苦い

旅は旨くて、時々苦い
山本高樹(やまもと たかき)
2022年9月14日

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はじめに

そうして味わった食べ物を思い出すと、
その時、その場所で、自分が何を感じ、何を考えていたのかも、
ともにはっきりと甦ってくる。
人間の五感のほとんどに作用する味の記憶は、
それに紐づく旅の経験を、
より強く、より深く、人の心に焼きつけるのかもしれない。

忘れられない、あの風景と。
忘れたくない、あの人々と。

「はじめに」の章で、タイトルの意味の一部が回収されています。

食べ物は確かに記憶に焼きつく感じがします。
あの時代に食べていたあの食べ物、
通っていたあのお店、
という感覚が自分にもあって、
ある食べ物、あるお店に強い愛着を抱くことがあります。

自分としては、それが生きていた証の一部のような気がして、
最近はそのようなお店や食べ物との出会いを探し求めてしまう衝動に駆られることが度々あります。

上海蟹とお人好しの詐欺師 China

そこは、僕が生まれて初めて踏んだ、異国の地だった。

最初の旅の章は、著者の最初の旅の記憶から始まります。
この章の内容自体は正直、
他の旅関連の著作でも似たことが書かれていそうな気もします。

でも、本作を全部読み終わってから振り返ると、
幾多の旅を続けてきた
旅のプロである著者にも、
こんな初々しい旅の始まりがあったのだと思わさせられました。

詐欺師に騙されることもある。
それでも踏み出した最初の一歩。
著者はなぜこの一歩を踏み出したのだろう、
どうして異国の地へ惹かれたのだろう。
そんなことを聞いてみたくなりました。

ラグメンとシンカワプとバイバイ・ストリート East Turkistan (China)

あのバイバイ・ストリートは、今、どうなっているのだろう。

この章は、本作に対する私自身の考え方が変わった転換点の一つです。
私はこの章を読んで、ようやく気付きました。
この著者が旅したその場所、その時代、その瞬間はたった一度きりしかないものなのだと。
だから、何らかの形で残しておかないと、それは永遠に失われてしまうのだと。

この著書はこれからも残り、将来色んな人が読むでしょう。
それによって、何らかの形でこの瞬間はこの世界に残るのだと思いました。

タコスと密林とモクテスマの復讐 Mexico

腹のあたりを触ってみると、しこりのように固くこわばっていて、
内側がぴくぴく震えている。
指で軽く押さえただけで、内蔵をえぐられるように苦しい。
口の中はぱさぱさに乾いているのに、
全身から、水のように冷たい汗が噴き出す。
両手が、小指の先までしびれている。

私は海外に一人で旅行したことがないです。 いつも二人以上で旅行してきました。
著者のように、こんな状態に一人でもしなったら、と思うと恐怖で身が竦みます。
そして、こんな目にあっても一人旅を続けたくなるんだ、と衝撃を受けました。
いつか一人旅にチャレンジしてみたい、でもやっぱり怖い。
そう思わさせられました。

カオマンガイと花馬車の街 Thailand

「地べたを這いずるような取材ができる人、ですね。」
実際、その言葉の通りだった。

この章も、本作への印象が変わった転換点の一つです。
この章で、著者の「プロ」としての旅の仕事の一部が描写されます。
旅の「プロ」という仕事があって、
普段本屋さんで見かける「地球の歩き方」ができているという流れを
より鮮明に感じることができました。

異国の寿司とトーテムポール USA

「あの頃、フェアバンクスの人間で、
ミチオのことを知らない人なんて、いなかったと思うわ。
すごいフォトグラファーだった。
アラスカの、ありとあらゆる場所に行って、
誰よりも情熱を込めて、
写真を撮っていたと思う...

星野道夫さんのことは、学校の国語の授業で知りました。
この章を読んで、星野さんは現地でも有名で、
また、様々な写真家の憧れの人でもあるということが
強く印象に残りました。

チャパティとダールと黄金寺院 India

遠い昔からこの地で暮らしてきた人々が、
守り続けてきたからこそ、変わらなかったのだ。
様々な軋轢に耐えながら、揺るぎない信念と、途方もない努力によって。

様々に変わるものに出会う旅の中で、変わらない空間。
その裏側を支える人々の献身。
あまりに凄まじい献身が想像されて、
単なる好奇心で立ち寄ることが憚れるような神聖さを感じました。
しかし、立ち寄る人と提供する人がともにいることで
この空間が初めて構成されているということにも気付かされました。

スノーキャップ・カプチーノと勉強の日々 India

ラダックでの取材が成功するかどうかは、わからない。
本を出せるかどうかも、わからない。
日本で続けてきた仕事は、全部なくなる。
将来には、何の保証もない。
それでもこの取材は、何としてもやり遂げてみたい。

この章が、本作で最も私にとって強く印象に残った、転換点となる章でした。
将来への不安と葛藤、その中での決断。
著者の気持ちに心が震えました。

私も挑戦してみたいことが色々あります。
でも、色んな条件を考えると踏み出せないことがあります。
そんな中でも「それでも」と言って一歩を踏み出したいもの。
私にとってそれは何なのだろう、と思わさせられました。
本当に大切にしたいこと、自分を丸ごと注ぎ出して挑戦してみたいもの。
それは何なのだろう、と考える今日この頃です。

ヒマラヤの辺境の地で、ひりひりするような不安を抱えながら、
一心不乱に走り続けていた日々。
それは、二十年遅れくらいにやってきた、僕の青春のようなものだったのかもしれない。

ひまわりの種と夜行列車 China

本当には何もわからないし、何もできない。
この世界で、自分はただ通り過ぎていくだけの存在でしかない。
あの時、僕はそのことを嫌というほど思い知った。
でも、そのわからなさを、投げ出してしまいたくはなかった。
それだけはできない、と思っていた。

この章が旅の最後の章でした。

この章ではある人物たちの様子が描かれていますが、
その説明は表面的で、深い背景までは描かれていません。
私は最初この章を読んだとき、理解できずに混乱しました。
何度かこの章を読み直しました。
おそらく著者自身が目の前の状況を本当の意味では理解できていないと感じたのだと思います。
何度か読み直して、私は、
「著者は、本当の意味を理解できないけれどもありのままを描写して伝えているのだ」
と理解しました。

旅人であるがゆえに、本当に深くその人と関わることはできない。
そのような、旅人の性質が鮮明に描かれているように感じました。

おわりに

見知らぬ土地を旅していた日々、僕は確かに、生きていた。
自分の力で、ではない。
行く先々の土地が、人々が、居場所と食べ物を分けてくれて、
僕を「生かしてくれていた」のだと思う。

私は、旅に対して少し否定的な感情を持っていました。
それは、旅という行為が消費であり、
一生懸命生きている人から色んなものを提供してもらって初めて成り立つものだと
思っていたからです。

でも、生きるという行為自体が
食べることをはじめ、あらゆるものを消費する行為でもあります。

その消費の中で、何を思い、何を為し、何を残すのか。
それをより明瞭な形で示し、実感させてくれる側面が旅にはあるのかなと思いました。
全部読み終えて、無性に旅をしたくなりました。